とあるキッカケがあり、以前から多少の興味を持っていたブログ作成というものを始めてみようとしていました、少し前まで。そして、その中でブログを立ち上げるための初期設定を数時間ほどかけて行い、さて、ブログの本文をかくタイミングになったのですが、「そういえば何を描きたいんだっけ?」という考えに駆られることとなりました。ブログを書く、ということが目標となりすぎて、そもそものブログの内容を一切考えていなかったのです。額縁は買いに行ったけれど、その額縁に入れる絵画自体はそもそも持ってもいないし、買おうとも思っていなかったというパターンですね。
このような場合、たとえば試しにアプリを入れてみようとして、触ってみた時になんかちゃうな、、、と思って即アンインストールするなんてことは誰しも一度は経験したことがあるかと思うのですが、今の私の立場ではそうしたくてもそうするわけにはいきませんでした。それはなぜかというと、すでにこのブログを作成するために12ヶ月契約でお金の支払いを確定させてしまったからです。なんとも参った話で、あまりに指が先走ってしまったようです。なので後戻りはできないので、「あっと、やべーな記事マジでどうしようか」という考えに直面することになりました。(どこぞの商品購入を促すときのAIテンプレートが出力するような「あれ?そういえば何を書きたいんだっけ?」となった経験はありませんか?のような文字列が頭の中で自動再生されていました。)
なのでいま完全にヤケクソになってます。ある程度計画性をもってブログ作成に臨んだ人ならばきっと、自分はどういう記事を書きたくて、そのためにはじめの記事はこのような土台から書き始めればいい感じに進むのではないか、、、とある程度のフレームワークをもって挑みます。つまり、記事案の考案→記事案の出力→記事の作成の順番なのですが、今まさにこの瞬間も記事の考案をしているので、全部同時進行です。くっそヤケクソです。ただ、書くことがないのでワンワン何書こうかと考えている暇があるのであれば、その思考ごと文字に起こしてやろうと考えたわけです。
そんなこんなで私が今直面したいくつかの問題があるので、それについて少し触れさせて下さい。まず、ブログって何だってことです。ブログといってもなんか食べ物紹介してたり、個人の日常を報告していたり、十人十色すぎて、大混乱です。(ほんとうはそこまで混乱していないのかもしれない)
イメージとして、ブログというか、このような記事になっているものは感想を書く場所ではなくて何かテーマをもってそのことについての解説とかをして深く掘っていくイメージが大変強いので、私が今行っていることはブログではなくただの感想文だと思うと、おそらくこれは正しいブログの使い方ではないのでしょう。ただ、もう仕方ないのでこれでいいかといった感じです。
完全に話が逸れてました。そういえば何を書けばいいんだっけ?と今考えていたのですが、ついさっきつけたタイトルに「思考は不快感や問題提起からしか生まれないという話」と書いてありました。そうです、まさにこれについての導入をしようとさっきまでの文章を書いていたのに違うことをしていました。ただこのタイトルはまさに今の私の状態から考えたことです。
この世の中にはいわゆる思考をぐるぐると巡らせている人もいれば、その対極にいる人もいます。そんな人でも日常の中で頭を回す機会が共通してあるとすれば、それはきっと不快感や問題意識を目の前に感じたときなのではないかと思います。ただ、その対極にいる人というのは別で、彼ら彼女らは僕が最も尊敬する生き様の一つに入りますが、同時に私の理解の届かない儚い存在でもありますから、ここでは一旦割愛させて下さい。日を改めて彼ら彼女らについては是非とも言及したいと思っているので。さて、本題に戻りまして、思考は問題からしか生まれないという点です。当たり前といえば当たり前なのでしょうか。私たちは昔から学校という義務教育という制度に強制されたコミュニティに参加することを強制され、そこで勉強というものを習います。そしてそこには必ず問題が提示され、それに対して考える、といったことを必要とされます。これが現代における、個人に対する原始的な思考の起源ではないかなと思います。そしてこの機能が優れている人はテストでの成績が上がりやすいという構図にもなっているように思います。もちろん、取り組む時間にもよることは百も承知ですが、今言っているのはどちらの方がこのシステムの中で都合よく次の段階に進んで行きやすいか、ということです。では、思考することが得意でない(?上手い言い方がわかりません)人はどのようにこの場を切り抜けたのでしょうか。正直検討がつきませんが、本人でも無意識のうちに暗記したものを出力するという形で勉強に対して向き合って来たのかもしれません。もしそうなのであれば大変健気であるように感じると同時に、やはり変わらず私の尊敬対象です。話を戻しまして、そうです、つまりなぜ考えが発生したのかといえば、それは目の前に問題が提示されたからであるといえませんか、ということです。ほかにたとえば毎日のミーティングの時間が長いなーって思っていたとします。そしてこのミーティングの時間が長いことをあなたが不愉快に思っていたとします。そのとき、このミーティングのやり方が「〇〇だったらもっと早く終わるのになぁ」みたいな発想が生まれてくることはそこまで不自然なことではないはずです。つまり、この例で言いたいのは、あなたが受けるその不快感や不愉快に思う感情が、思考を生み出したのではないかということです。ここで私が考えるのは、その不快感や不愉快に思う感情が湧かないほどに、この世界が完璧な状態になってしまえば、そのとき人類は考えることを原理上できなくなってしまう可能性はないかということです。もちろん学習としての思考は存在します。それは学校というある種のコミュニティの中で出題される社会に出てからの不愉快に対処するための例題のようなものであって、その対処についてはすぐには変えないだろうと考えるからです。一方現代社会では50年前の人がその50年前と比べた時代の変化よりも今の私たちが50年前の人たちと比べた時代の変化の方が大きく感じます。それはやはり、テクノロジーがある種指数関数的に増加してしまう以上必然性を伴うものではありますが、この傾向を見れば、この50年後は今までの50年よりも早いスピードで文明が発達すると考えて間違いなさそうです。それは私たちの感性が変わらなければの話ですが。ここまで考えると人は思考しなくなるのか、ということです。私の見解はNOです。なぜなら思考は問題から生まれるものですが、その思考自体を好む人がこの世には一定数存在するからです。それも大きな割合で、です。これも歴史を見ればわかりますが、大多数が好む対象は文明が発達しもはやそれを行う必要性、必然性を失っても継続されることがわかります。たとえばスポーツ。これは諸説あるので断言しきれませんが、元来スポーツは体を動かす以上、外的から身を守るために体を俊敏に逞しくするといった元々の問題意識から生まれたと考えることもできます。ただ、たとえば戦争に駆り出されない国や地域の国民が誰1人スポーツをしていないかといえばそんなことはありません。みな、楽しいから、など感情や直感に従ってスポーツをします。外的から身を守るための訓練のためではありません。チェスや囲碁将棋なんかも違った角度から見れば同じです。もはや大多数の人類がこれらの競技で勝つことのできないAIという存在があるにも関わらず、だからそこに存在意義は無くなることはなく、老若男女皆楽しみます。
このように考えれば、やはり我々の原始的欲求の一つには、楽しみを得たいという、認めざるを得ないものが存在しており、それを否定することは誰にもできないようです。

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