「学び」と「Anki」の相性について

勉強法

この記事では私の勉強に対する意見、つまり勉強観について述べていく記事です。勉強とは何かについて悩んでいたり、成果がなかなか出ないと思っている人の一助になれば、それは私の本望です。

私の経歴について

まず私の経歴についてですが、中学受験を経験し、中高一貫校に6年間通いました。その後に浪人経験を1年間通し大学に入学。世間一般にある程度の知名度を持つ日本の大学に入学し理系学生として生活をしています。なので、ほかの人よりも長い時間勉強について触れてきたという点においてはある程度参考になるかと思います。

結論から

結論から入りたいと思います。私は勉強は「理解」のフェーズと「記憶」のフェーズの2つに大別されると考えます。何を当たり前なことを…と思った方ももう少しお付き合いください。

その両輪が上手く駆動していれば、その勉強はある一定以上の成果を必ず上げることが出来る、というのが私のたどり着いた、最も確実に学びを得ることのできる手段です。

「理解する」とはなにか

なにを言っているのかを少しかみ砕きながら進めていきます。と言いたいのですが、ここで早速難題となってしまうのです。それはこの「理解」という行為、作業、動作を習得することがまず結構鬼門だということです。

人はどのように新しい技術を習得するのか

例えばあなたが水泳を教わるとします。この時あなたはコーチの正しい泳ぎ方を「見る」ことが出来ます。そしてそれをまねることが出来ます。また、必要とあらば実際にコーチに足などを触ってもらうことで、どのように動かすことが正解であるかを矯正してもらうこともできます。

しかし、「理解」という動作においてそれが出来るかといえば、それは難しいでしょう。できるのは「解く動作」です。上の例に習っていうと、例えばあなたが算数の授業を学校で受けているとします。そしてある問題を解いています。この時あなたは先生が板書した正しい解き方を「見る」ことが出来、そしてそれをまねて自分のノートに写すこともできます。そして、必要とあらば、それを先生が採点して、自分がまねたと思っていたことが無意識に間違った方へ行っていないかを矯正してもらうこともできます。

この例で言っている具体例を抽象化すれば、人間が動作を習得する際の1つの方法として「視覚情報としてまず処理」→「それを自分で再現する」、それが正しいかどうかは「外部からの働き」によって強制されることができる、という構造だな。

しかし、「理解」という動作はこれを基本的に模倣できません。なぜなら「理解する」という動作は人の脳が動く動作であり、それはふつう、外部から感知できないからです。仮に先生があたまを切って問題を解いているときの脳の状態を観察させてくれたとしても、あなたは右手を動かせと言われたときのように、左脳や右脳を動かせと言われたときに、それを自由自在に動かすことはできないので、模倣は難しいです。また、「外部からの働き」によって強制することはもしかすると可能かもしれません。それは「教員」と「生徒」の脳波を絶えず検知し続け、「教員側」が「理解」を行っているときの脳の動き方と「生徒側」の脳の動き方が一致すればもしかしたらうまくいくかもしれませんが、そもそもその脳の動きが「理解」するという動作と一意に結びついていなければこの方法は意味をなさないし、(要は「別のことを考えている」状態と「理解する」状態の脳の動きがたまたま同じであった場合、「教員側」の脳の動きと「生徒側」の脳の動きがたとえ同じであっても、それは「理解している」かは判断できないということです。)

「勉強」の持つジレンマ

ここに「勉強」というものの大きな「ジレンマ」がはらんでいることになります。誰もが賢くなるために勉強を学校でしますが、「勉強」=「理解」&「記憶」と考えれば、「理解」を習得できていない人からすれば、「勉強」=「記憶」と認識してしまうということです。

「勉強は暗記ゲーだ」という人が一定数存在しているのは、ほぼ間違いなくこれが要因だろうね。抽象概念である「理解」というものを理解できていないんだ。

ではなぜこんなことが起きてしまうのでしょうか。それは人類の歴史を振り返れば見えてきます。私たちの脳は「原始時代」から受け継がれてきています。勿論発達してきましたが、ベースは昔仕様だということです。たとえば、わたしたちは教えられたわけでもないのにいつの間にか恐怖を覚える動物って一定数いるよね。例えば「熊、オオスズメバチ、ライオン、…」。これらは私たちが生まれた後から獲得したものではなくて先天的な物。これと同様に人間はなにかを「覚える」ときに「視覚情報」の方が覚えやすいという特徴があったりする。たとえば、あなたが迷子になっていたとして、人から複雑な経路をその場で伝えられるよりも地図にそのルートを書いてもらった方がわかりやすい、みたいな感じ。視覚が本能的に有利なのは一気に情報を取り込める面で効率が良かったりするからかもしれません。極端な話、原始時代のことを考えると、今まさに目の前にライオンが息をひそめて忍び寄ってきていたとして、人類が聴覚にステータスを全振りしていた場合、そうとうライオンが近づいてきて草むらがガサガサと揺れれば目の前に何かいるかもしれないと判断して逃げることが出来るけど、たぶんそればもう間に合わないでしょう。対して視覚情報の方が優れていれば数十m離れていても逃げ始めることが出来るでしょう。

もちろん、個人差はあるけどね。

つまり、私たちの学習プロセスが「見る」→「まねる」→「習得」という一連の流れをとるのは歴史の観点から見れば自然なことだともいえます。

「理解する」ということを理解すること自体が多くの人にとってはそもそも難解なのです。なぜならそれが正しいかどうかを判断することが出来ないからです。もし「理解」という動作を頭の中でできてもそれが視覚情報として表出しない以上、答え合わせが出来ないといった感じです。

これは幼少期からの学習スタイルの変化に適応できていない、またはそれを矯正してくれるタイミングや先生などが基本的に存在していないことも問題を生み出す原因としてあげられるでしょう。この内容は完全に話がそれるので、詳しくは別の記事で。

「幼少期」の勉強法と「大人」になってからの勉強法の違い
この記事は、6歳未満の「幼少期」と呼ばれる時期と、それ以上の年齢になった「児童期」、「大人」の時期で人間が得意な勉強のスタイルは異なってくるという話についての記事です。 まず、大前提として言っておきたいことは、これらにはもちろん個人差...

ではどうすればよいかということです。世の中には「理解する」ことがどういうことであるかを様々な人が言い換えたり定義したりして飽和状態にあります。もはやどれが正しいのかも判断がつかない状態に近いです。ではどのような基準で判断すればもっともそれらしい答えにたどり着くのかを私は学生自体のときからずっと考えてきまして、そんな中で私なりにまとまって結論付けが出来ていますので、そのいくらかをご紹介したいと思います。ただ、可能であれば以下にご紹介するものも、鵜呑みにせず、自分の中で消化してみることが望ましいでしょう。

「理解する」を定義する

まず評価軸として「勉強」=[理解」&「暗記」と分解できるのであれば、「勉強が出来る人」の展開する「理解」の定義が最も信用できるのではないかと考えました。その中から3人ほど上げさせていただきます。

「理解する」の定義 その1

一人目は東進予備校講師の「S.N」先生です。当時予備校でこの先生の授業を受けていた際には、その俗世離れした考え方や解法の美しさに衝撃を受け続けたのを今でもはっきりと覚えています。幼稚な言い方をすれば完全に「ぶっ壊れ」です。物理界では彼ほど「基礎基本」や「原理」の重要性を説いている先生が少ないのも事実です。有名な言葉で、「定義がちょっとでも曖昧になってくると、途中で間違ってくる」というものもありますね。さてそんな彼が述べたのは

「理解」しているかどうかは「他人」に説明することが出来るかどうかが指標になる

というものでした。世間一般に言われている「理解」の定義とほとんど変わらないでしょう。「他人」に説明できなければそれはすなわち「理解している」とはいえないということです。「理解する」という概念を直接定義することが出来ない為に、「理解している」⇒「人に説明できる」という論理構造です。対偶をとれば「人に説明できない」⇒「理解しているとは言えない」となります。先ほど述べた「理解という動作の模倣」から「模倣可能な動作」に焦点を置き換えた分かりやすい定義です。ただ、ここで注目すべきは「他人」とはどのような人物を指すのかということです。ちなみに私は学生時代からこの部分に対してかなり懐疑的で、この定義がしっくりときませんでした。というのも、まず巷で理解に対するこの種の定義、説明がなされるときによく言われることがあります。それは「5歳児に説明できるように」といったものや「目の前の人形に説明しながら」といったものでした。私はこれらに大変な反発をしていました。
※これらのことをすんなり受け入れることが出来るかたは次の文章を読まなくても大丈夫です。

どういうことかといえば、まず「5歳児に説明する」ということがあまりに現実的ではないじゃないかということです。だって「5歳児」です。話が通じません。こっちが説明したとしても相手の脳力とこちらのそれがあまりに違ったときに説明したところでそれこそ相手は理解できません。また、これを空想上で行うときにいつも私の口調は五歳児にむけた赤ちゃん言葉のようなものとなってしまうことしか想像できず、勉強中にそれを想像するのは私にとって非効率以外の何物でもなく、大変なストレスでした。いちいち「赤ちゃん言葉」を使っているなんてやってられません。じゃあ想定する相手の年齢をもう少し上げればよいではないか、と言われるかもしれませんが、これはたとえ相手が10歳だろがそこまで変わりません。なぜならこの考え方の欠点は、必ず相手が自分よりも年齢的にも精神的にも下の人間を想定しなければならない、というところにあるからです。ここで私は自分よりも年下のことが嫌いだとか苦手だとかそういうことを言っているのではありません。想定の中とはいえ、自分よりも年齢的に下の人間に説明することは口調や態度にもある程度配慮が必要で、それが想定の中であっても私にとっては何よりも煩わしいことだったのです。
あと、私にとっては人形は論外でした。話さないので。

この煩わしさは解決することなく、私の高校人生は終了し、浪人時代に突入してもこれを解決してくれる人は現れず、大学生活に突入しました。

「理解する」の定義 その2

ただここで転機が訪れます。1回生のときに、興味本位でとった「相対性理論」の授業の教員がこのモヤモヤを払拭してくれることとなりました。それが第2の定義です。(定義自体に私の解釈が多少介入していますが、それは伝わりやすくするためです。原義はそこまでずれないはずです。)

昔の人に説明できなければ、それは理解したとは言えない

この定義はそこまで巷で出回っているものではないと思うので、少しかみ砕いて説明します。まず、「相対性理論」の授業の特性上、時間の逆行などについての話も当然出てきます。あの幼き日にBack to the Futureに感化された日から、この手の話には大変興味があったので、もちろん好奇心Maxで授業に臨んでいたわけですが、そんななか、初回授業の導入の際に、この授業がどのように進むのかに関して説明がありました。そのなかでこんな説明がありました。

「もし時間を逆行することが出来るタイムマシンが完成した考えてほしい。そして君がそのタイムマシンに乗って過去の世界に行ったとする。そこで君が現代科学に関してその当時の人を説得し理解させることが出来るとすれば、あなたは巨万の富を築くことができるだろうし、歴史にだって名前が残るはずです。このようなことを想定して、この授業に取り組んでみてほしいと思います。」

多分授業を聞いていた大半の人にとっては教員のただの雑談程度にしか聞こえていなかったと思いますが、これは私にとっては一大イベントでした。それは私が長年試行錯誤していた「説明相手」をやっと発見できたからです。「子供相手に説明する」のも「人形相手に説明する」のも同じ空想の中で行います。であればそれが「過去の人」であっても空想の中であるという意味で差別化はできません。この発想を用いればさきほどの「煩わしさ」の原因である「自分よりも年齢の低い対象に説明しなければならない」というものを解決できます。

そこで「理解に対する定義」を再考することにし、以下のようにしました。

江戸の人に説明できなければ、それは理解できたとは言えない

なんで急に「江戸時代?」って思われた方もいると思いますが、ここが実は個人的に大事にしたいところです。まず「過去の人」といっても「縄文時代」や「平安時代」までさかのぼってしまうと価値観が違いすぎて、まず話が通じません。これはあまりに非現実的です。(この想像自体が「相対性理論」の観点からすれば「非現実的」ですが、そのなかでもそもそも「説明」という動作が成立しない時点で採用不可です。)

なので「江戸時代」です。まず多くの人が「江戸時代」を認識しやすいという点が利点であります。また、この時代は「儒学」などが発達してきた時代でもあり、世の中に「教養を持つ人」や「学習意欲が高い学者」などが登場してきた時代です。この時代のこの人たちをターゲットに説明をすればきっと熱心に話を聞いてくれるはずだろうし、ある程度の教養を持っている人たちです。中途半端な説明は適当な端折った説明、論理構造の破綻した説明はすぐには受け入れてもらえないでしょう。これが何を意味するかといえば、先に述べたようにタイムマシンで過去に戻ったはいいものの、歴史をわずかに乱しただけで「巨万の富を気付くこと」も「歴史に名を残すこと」もできないということです。だから、これから江戸時代に行くというつもりで、ただし教材すべてを持っていくわけにはいきません。だから、今勉強しているその瞬間に「説明できるように」準備しとけよ、と、そういうわけです。

私はこのように理解について捉えてからというもの、だいぶ「人に説明できるように」という部分の解像度が増しました。これが何を意味するのかといえば、「理解できる」⇒「人に説明できる」自体の解像度が上がることとなります。それはつまり、相対的に「理解できる」ということに対しての解像度が上がることも意味します。

私は大学生になるまでにここまでかかってしまいましたが、それからというもの、勉強に対する理解が深まってきて、本来の楽しさのようなものをやっと見いだせてきたように感じます。

「理解すること」と「暗記すること」のバランス関係

さて、このように考えた大学一年生の時の私は、「勉強」とは何たるかを完全に掌握した気分になっていました。新しいことを習う最初期の段階で、この「理解する」という行動をうまく行うことで「理解」できているかを外的な要因から検査する「問題」というものがありますが、(別記事で述べようと思います。)もはや「理解」できている状態にあるので、原理上、問題が解けてしまう、という現象が発生しました。そんなこんなで完全に油断し、痛い目にあったのが大学1年生後期の「線形代数」のテストです。

「線形代数」のテストを10日前に控えた状態で、もはやすべての問題が何の苦も無く解ける自信がありました。なぜなら問題を見たときに、当然するべきことが思い浮かぶ状態になっていたからです。テスト勉強もこの時点ですでにほとんど終了しており、余裕で乗り越えられると慢心していました。

そして迎えた線形代数当日、テスト勉強は10日前に終わっていると思っていたので、それ以降はテスト勉強をしませんでした。テスト15分前になって教科書をぱらぱらと眺めたぐらいでテストに臨みました。

長引きそうなので言ってしまうと、要は覚えていなかったということです。「理解が深ければ、その理解を問うような問題に対しては全て解ける」という理論が私の中にはあったのですが、それは機械だと実現しますが、人間の場合、その理解したことごと、ごっそり思い出せなれば意味がないということです。

なので再び考え直しました。どうしたら一回理解したことを忘れずに保存して置けるかを考えてみた結果たどり着いたのがAnkiでした。

AnkiってあのアプリとかのAnkiだよね?って思った方、まさにおっしゃる通りです。でもAnkiって単語とかを覚えるような丸暗記したいものとかに向いていて、そもそも「理解」という概念と相性が悪いんじゃないかと思う人もいるかと思います。そこで、そのことについては別の記事でまとめましたのでそちらをご覧ください。

理解のために「Anki」を用いるということ
はじめに 以下ではiOSアプリなどに用いられているものに対しては"Anki"とアルファベット表記、市販で販売されているものや一般用語として用いられているものに対しては「暗記」と漢字表記をすることで区別することとします。 この記事では...

「理解する」の定義 その3

さて、ここまで「理解とは何か」と理解を忘れないようにするためのAnkiの活用方法について述べてきました。ここまで長々と紹介してきましたが、私が初めに提案したのは3つの理解の方法があるということです。1つ目は東大を首席で卒業した、S.N.先生の「他人に説明できるかどうか」です。そして2つ目はこの「他人」という部分の解像度をあげた「江戸時代の人に説明できるか」です。そしてそこに暗記要素が加わります。それをうまくまとめているのが「牛尾剛」さんという方です。この方はアメリカでマイクロソフトシニアエンジニアとしてご活躍されている方で、その本の中に「理解する」ことについて言及されている部分がありました。それは

「理解する」とは「説明可能」「いつでも使える」「応用可能」の3つに分解される

とする立場のものです。まず、「説明可能」はここまで述べてきたことに対応します。「いつでも使える」というのはここまで述べてきたことであれば「記憶しているかどうか」に対応します。線形代数の際の私にはこの部分が足りていませんでした。そして3つ目は「応用可能」であるかどうかということです。

「世界一流エンジニアの思考法」より抜粋

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「応用可能」であるという3つ目の要素に関しては、ここで私が述べると完全に本書の内容のオーバーラップとなってしまうので、ここでは割愛させていただきます。気になるという方はぜひ一度読んでいただければなと思います。大変面白い内容です。

さて、ここで「理解する」ということに対して多くの人が挫折する理由について触れたいと思います。おそらくですが、中学生や高校生の多くの人は「理解する」ということを上手にできていないのではないかなと思います。それはどのようなことからわかるのかといえば、これも歴史を参考にしますが、例えばかつて東京大学でこんな問題が出題されました。

(1) 一般角\( \theta \) に対して \( \sin\theta, \cos\theta \) の定義を述べよ。
(2) (1)で述べた定義にもとづき,一般角 $\alpha, \beta$ に対して
$$\sin(\alpha + \beta) = \sin\alpha\cos\beta + \cos\alpha\sin\beta$$
$$\cos(\alpha + \beta) = \cos\alpha\cos\beta – \sin\alpha\sin\beta$$
を証明せよ。

[1999年 東京大]

この問題は1999年に東京大学で出題された三角関数の加法定理の証明を求めている問題です。(1)では三角関数が単位円を用いてどのように定義されているのかを問うており、(2)ではその定義を用いて加法定理を実際に導いてみなさいというものでした。

しかし、この問題の正答率は当時2割ほどだったと言います。確かに(2)において、偏角の単純な足し算の関係を単位円上にそのまま書き起こして書けば一見解けないように見えるといった、一筋縄ではいかないようになってはいますが、まともな参考書であれば、必ずどの参考書でも証明は記載されているはずです。つまり、東大生でもこの問題を解けなかったというのはどのようなことを示しているかといえば、いくつかのパターンに分かれます。

一つ目は教科書で読んで理解できたことがあったけれど、どのように理解したのかを思い出さなかったパターンです。これは、線形代数のテストを受けた私と全く同じパターンでしょう。

2つ目のパターンはそもそも解き方について考えたことがない層です。正答率が当時2割ほどである現状を踏まえれば、こちらが多数であることが現実でしょう。冒頭でも述べたように、「勉強する」ということを幼い時からの学習スタイルが閉概して、「模倣する」ということと認識して育った人たちは、「加法定理」をその他の定理を導くための、また、問題を解くことが出来るようになるための強力な「道具」としてしか認識していません。要は丸暗記です。逆にいえば、加法定理の公式を受験の日になっても覚えていない受験生など、東大に合格する人たちの中に入るはずがありません。それは東大に限らず多くの国公立や医学部での受験であってもそうでしょう。

S.N.先生の言葉を借りれば「お話にならない」というやつだね!

では何が問題だったのかといえば、それは「加法定理」を昔の人に説明しなければ、説得してこの定理が確かに正しいものであると信じさせることが出来なければ、それは「理解できている」とは言えないよ、というものです。ようは、この問題は「加法定理」が成立するとは言っても、それがなぜであるのかをあなたは説明できますか?ということを明確に問うていることが分かります。逆にいえば、この問題を少なくとも解くことのできる生徒は「理解する」ということを理解できている確率が高いので、結果として、視覚化することのできない「理解する」ということや「勉強する」ということが出来ているかをうまく選別することのできる、ある意味で秀逸な問題であるともいえるのです。やはり、特に難関大学と言われる大学の出題する入試問題にはきちんと本人も意識できていないかもしれない「勉強」を正しくできているかどうかを見極めることのできる、質の高いものとなっているのであって、むやみやたらに受けても何年も入学を許可されないのは、この要件を満たしていないと言わざるを得ないでしょう。

少し冗長になったので最後にしますが、要は昔の人に説明できるようになっていれば、そのことを文字に起こすだけなのでもちろん問題は当たり前に解けるということです。これが「理解している」ことの魅力です。先にも言いましたが、大学までの勉強であれば少なくとも人類がまだ解決することのできない「未解決問題」などは出題されるわけがありません。すべて「答え」の存在する「問題」が出題されます。そして、その「問題」の意図するところは、「理解」「暗記」のベン図の二つの集合部分が満たされているかを問うているのに過ぎないため、「理解」や「暗記」のこの部分のレベルが100%満たされていれば、それに応じるように問題は解くことが出来るということです。
※このベン図の領域外にあるのがまさに「未解決問題」や「ミレニアム問題」「宇宙の謎」などに対応すると考えます。なので価値が高いのです。

まとめ

以上まとめです。

  • 「勉強」=「理解」&「暗記」
  • 「理解」とは平たく言えば「人に説明できること」
  • 「理解」したことは忘れてしまわないようにするいくらかの工夫が必要。なぜなら人間が「忘れる」という能力を持っているから

以上、お読みいただきありがとうございました。少しでもあなたの勉強観の参考になればこれ以上に嬉しいことはありません。

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